日本英文学会関東支部第18回大会(2019年度秋季大会)についてのお知らせ

日本英文学会関東支部第18回大会(2019年度秋季大会)
日時: 2019 年 10月 13 日(日)
会場:上智大学四谷キャンパス
https://www.sophia.ac.jp/jpn/info/access/accessguide/access_yotsuya.html


開場・受付(11:40より2号館4階エレベーターホール横ラウンジ)
総会(12:10より2号館4階401教室)


【研究発表1】 (12:40〜13:20)

第1会場 (2号館4階402教室)

女性を巡る誤認と Much Ado about Nothing のハイブリッド性
(発表)冨田 岳(立教大学大学院博士課程後期課程)
(司会)五十嵐 博久(東洋大学教授)

ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の中期の喜劇『から騒ぎ』(Much Ado about Nothing, 1598)は、ヒアローを不貞とみなすクローディオの悲劇的な誤認を巡り、F・H・メアーズなどの批評家によって、後期作品との共通性が指摘されてきた。愛する女性に裏切られるという誤認のテーマは、シェイクスピア中期と後期の作品において重要で、『オセロー』(Othello, 1604)やロマンス劇では悲劇的に、『ウィンザーの陽気な女房たち』(The Merry Wives of Windsor, 1597-1602)では喜劇的に提示される。クレア・マケカーンは、その悲劇性と喜劇性の中間に『から騒ぎ』を位置づける。だが、『から騒ぎ』はしばしば他のシェイクスピア作品との関連で論じられ、ルネサンス演劇におけるこの芝居の位置づけは、あまり論じられていない。本発表では、『から騒ぎ』の誤認というテーマに見られる喜劇と悲劇のハイブリッド性に注目し、他のシェイクスピア劇やルネサンス演劇と比較分析しながら、それらの作品の中でこの芝居がいかなる位置を占めるのかを、明らかにしたい。

第2会場 (2号館4階403教室)

『間違いの喜劇』におけるレヴァント貿易とイングランド人の自己成型
(発表)三原 里美(上智大学大学院博士後期課程)
(司会)本多 まりえ(明治学院大学准教授)

シェイクスピアの『間違いの喜劇』は同時代ロンドンの商業世界と重ね合わされる傾向にある一方で、当時のレヴァント貿易を軸に解釈されることは少ない。だが、レヴァント貿易商品への言及が繰り返されるこの劇において、主筋である双子の取り違えが原因で多くの取り引きが失敗に終わる点は注目に値する。本発表では、初期近代におけるレヴァント貿易を通した輸入品がイングランド人の自己像の形成に与えた影響を手掛かりに、イングランドに流入する地中海文化に対する不安を描いた物語として、双子の取り違えの物語を再考したい。劇における誤った交換が家庭と地中海の経済圏との間を行き来する商品の流動性を示唆していることを指摘したのち、トルコ文化の流入に警鐘を鳴らす同時代の劇作家たちが憂慮したような、“stranger”へと変容するイングランド人を、劇中で地元住人の家に侵入する旅人がいかに表象しているかを論じる。


【研究発表2】 (13:30〜14:10)

第1会場 (2号館4階402教室)

バラバラの身体――アンジェラ・カーター『魔法の玩具店』とロンドン大空襲
(発表)奥畑 豊(ロンドン大学バークベック校大学院博士課程)
(司会)生駒 夏美(国際基督教大学教授)

アンジェラ・カーターの第二長編『魔法の玩具店』(The Magic Toyshop, 1967)は作者自身の言葉によれば一種のお伽話である。本発表ではテクスト内外の手がかりを参照しつつ、南ロンドンを舞台にしたこの小説を、第二次世界大戦中の大空襲(the Blitz)や疎開との関わりから分析し、本作を二十世紀における暴力的な死――とりわけその一つの形態でもある戦時下における大量の死――を暗示的に扱った「現代のお伽話」として再読する。ここでは空襲の被害やヨークシャーへの疎開に関するカーター自身の体験のみならず、作中に描かれる南ロンドンの地理的・歴史的情報や、作者が意識したと思われるフロイトの著作などをも踏まえながら、『魔法の玩具店』において繰り返し登場する「バラバラの死体」のグロテスクなモティーフを第二次大戦(及びその記憶)という文脈に置いて検討する。そしてその上で、幾度も反復的に回帰するこの暴力的な死のイメージを抑圧・隠蔽されたトラウマとして考察してみたい。

第2会場 (2号館4階403教室)

ジェンダー化するnoise――『どなる女』におけるモルの表象
(発表)檀浦 麻衣(東京家政大学助教)
(司会)本多 まりえ(明治学院大学准教授)

トマス・ミドルトンとトマス・デッカーの共作『どなる女(The Roaring Girl)』(c.1611)は、これまで主に異性装という視覚的な視点からヒロインのモル・カットパースの逸脱が論じられてきた。しかし、タイトルの ‘roaring’ に示されるように、音(voice, sound)に関する言及が多いことは注目すべき点であろう。ジェニー・ヴォタヴァが聴覚的な視点からモルの逸脱を論じる妥当性を訴えたように (Votava 69)、聴覚にかかわる描写を読み解くことで、私たちは同時代の観客がイメージしたであろうモル像を明らかにできるのではないか。本発表では、聴覚的イメージから形成されるモルが「がみがみ女」と「浮浪者」のレッテルを張られ、観客の性的興奮と不安を喚起したことを明らかにし、劇の大団円において社会の「騒音(noise)」として排除される過程を読み解きたい。


【部門別シンポジウム】 (14:20〜16:20)

シンポジウム1(イギリス文学)(2号館4階401教室)

『妖精の女王』と『失楽園』――叙事詩をどう楽しむか?
(司会)岩永 弘人(東京農業大学教授)
(講師)水野 眞理(京都大学教授)
(講師)笹川 渉(青山学院大学准教授)
(講師)松村 祐香里(金沢学院大学講師)

英文学の1つの伝統的文学ジャンルである叙事詩の読み直しを図る。主に扱う作品は、『妖精の女王』(FQ)と『失楽園』(PL)。これら2つの作品は、ジャンルとしては同じ叙事詩に属するが、非常に対照的な作品と言ってよい(詩形、内容、歌い方、など)。本シンポではPLを意識してFQを読み、またFQを意識してPLを読む事で、それぞれの作品の特質をあぶり出す事を主たる目的とする。想定される聴衆はミルトンやスペンサーの専門家も含むが、むしろ日頃あまりこの時代の叙事詩(あるいは詩自体)に触れる事が少ないフロアーを想定しているので、まずはじめに両作品に関する基礎的な事実の確認を行う予定(岩永担当)。また、これらの大詩人の詩を昨今の英文学専門の学生にどのように面白く、かつ効率的に教えていくかのヒントも、いくつか提示できればと考えている。


『妖精の女王』と『楽園喪失』における冶金
 水野 眞理(京都大学教授)

16世紀中期のヨーロッパでは、それまで職人の手に任され、一般人には秘められていた金属加工技術に関して、シエナのビリングッチオ、ケムニッツのアグリコラ、フィレンツェのチェッリーニといった著者による専門書が出版された。これは一方では戦争に必要な金属類を効率的に調達する技術、他方では芸術の素材としての金属類の扱いの知識が求められたことの現われであろう。しかしながら、ルネサンスのヨーロッパでよく知られていたヘーシオドスの『仕事と日』およびオウィディウスの『変身譚』などは、文明を黄金時代からしだいに堕落して鉄の時代へと至る流れとしてとらえており、そのトポスはルネサンスの叙事詩を強く支配してもいた。
 本シンポジアムでは、エドマンド・スペンサーとジョン・ミルトンがそれぞれの叙事詩の中で金製品の生産を扱う詩行をとりあげ、それらがどのように時代を反映しているのか、またどう古典的トポスとの折り合いをつけているのか、といった点を考えたい。


『妖精の女王』と『失楽園』における宴
 笹川 渉(青山学院大学准教授)

叙事詩というジャンルが、英雄物語による国家や国王の賛美という枠組みを前提とするならば、スペンサーの『妖精の女王』はその枠に収まるものの、ミルトンの『失楽園』は例外である。なぜならスペンサーの叙事詩は、妖精の女王の宮廷で開催される祝宴を物語の枠とし、イングランドとエリザベス女王を讃えることを目的としているのに対し、共和政府を支え、スチュアート朝の支配を否定したミルトンの描く『失楽園』は、国家の繁栄よりもアダムとイヴが築く家庭の賛美とその2人の救済に焦点が当てられているからである。
 スペンサーとは異なり、宴(feast)を描くことは「英雄(叙事詩)の名にふさわしくない」(9.40–41)と宣言するミルトンだが、一方で『失楽園』にはキリスト教的な宴を描き出していることは見逃せない。本発表では、叙事詩の要素として欠かせないものの一つである宴に注目して両作品を読み直すことで、キリスト教的叙事詩としての位置付けを考察したい。


叙事詩に楽しみを求めるのは間違っているだろうか
 松村 祐香里(金沢学院大学講師)

今日、学生に叙事詩の面白さを伝えるのは難しい。彼らにとって詩は、奇妙なルールに縛られた分かりづらい文章の連なりのようである。一方で、叙事詩に頻繁に用いられる神話的モチーフや登場人物、あるいは英雄の冒険物語に親しみを覚える学生はことのほか多い。そのような学生の詩に対する抵抗感を減らし、興味をもたせるにはどうすべきか。
 本発表では、The Faerie Queeneの第1巻とParadise Lostを、それぞれ赤十字の騎士とセイタンの一種の「冒険譚」とみなして比較することを考えている。両者とも選ばれし者として試練を課されるものの、最終的に前者がドラゴンを倒すのに対し、後者は自身が蛇に変えられてしまう。このような真逆の結末をもたらす原因は、主人公が試練を受けたあと、悔悛を経て天の恩寵を受けるか否か、にあるだろう。この点に着目しながら2つの作品を読み比べ、まずはストーリーを追うことで、学生も長編叙事詩を無理なく楽しめるのではないかという可能性を示したい。


シンポジウム2(アメリカ文学)(2号館4階414教室)

現代フェミニズム奇譚――テクストを編む女性の身体のいま・ここ
(司会)佐藤 里野(東洋大学講師)
(講師)小澤 英実(東京学芸大学准教授)
(講師)日野原 慶(大東文化大学講師)
(講師)阿南 順子(関西大学教授)

2019年3月、アメリカのフェミニスト・アートの先駆者として知られるパフォーマンス・アーティストのCarolee Schneemannが79歳でこの世を去った。彼女は1975年のInterior Scrollにおいて全裸で登場し、自身の体内から紙の巻物を取り出して読み上げるパフォーマンスを通して「テクストを産む女性の身体」を強烈なヴィジュアルとともに提示した。それから40数年、フェミニズムは変遷を経て、「女性の身体」が本質的な概念として無批判に参照されることには留保が置かれるようになった。とはいえ「女性の身体」は今もなお次々と新奇なテクストを編み続けている。本シンポジウムでは、そのようなテクストに取り組んでいる3人の研究者を講師に迎え、日米の現代の女性の身体表象について考察する。昨年来日したJudith Butlerは今もってフェミニズムにおける身体の問題の重要性を説き、「#Me Too」運動は「女性の身体」を語り、翻訳し、上演するための空間を拡大させた。そのような状況を背景に、言語、ジャンル、そして理論と実践の間を横断しつつ、いま女性の身体について議論することの意義を議論してみたい。


逸脱する女性身体――Monstrous Feminine再考
 小澤 英実(東京学芸大学准教授)

Ellen MoersやBarbara JohnsonがFrankensteinの物語に出産の不安を読み解いて以来、フェミニズム批評は、グロテスクな怪物表象にはそれを産み出す怪物的な女性性の表象が内包されていることを繰り返し指摘してきた。ある身体を「女性」にカテゴライズする正当性の最大の根拠となる生殖行為において、出産というパフォーマンスは、母と子がともに互いをアブジェクトし、ともに互いの主体を脅かす存在へと変貌させる決定的なモメントとなる。本発表では、Carmen Maria MachadoのHer Bodies and Other Parties(2017)やJohn WatersのFemale Trouble(1974)などの作品に登場する“abnormal”な母子関係に焦点を当て、規範から逸脱した女性の身体およびセクシュアリティがどのように描かれ、またどのような再配置が可能なのかを考察し、アブジェクションとしての女性身体やMonstrous Feminineとしての母性を再考する。


ファット・ナラティブの系譜と可能性
 日野原 慶(大東文化大学講師)

ある基準をこえて「大きい」とみなされる身体を、現代作家が作品の中心に置くとき、共通する傾向は、そのような身体を産み出す恣意的な基準自体への批判と、それからの解放の探究である。アメリカにゆかりのある近年の例としてSarai Walkerによる長編小説Dietland(2015)、Mona Awadによる連作短編集13 Ways of Looking at a Fat Girl(2016)、Roxane Gayによる回想録Hunger: A Memoir of (My) Body(2017)などをとりあげ、これらの作品のコンテクストとして、特定の身体を規範外に置き病理化する“obesity”の言説と、それに抗う“fat liberation”の言説との間の、相容れない身体観の対立があることを確認する。その上で、後者の言説に共感を示す文学テクストが、社会運動としての“fat liberation”に併走する点と、そこから逸脱する点を明らかにする。2012年創刊のジャーナルFat Studies: An Interdisciplinary Journal of Body Weight and Societyを中心に、これまでのファット・スタディーズにおける議論を参照する。


現代日本における「少女美学」―― パフォーマンス及びヴィジュアル・アーツにみる「少女身体」の表象
 阿南 順子(関西大学教授)

日本文化では近代から現代に至るまで、ある種の「少女性」が美学として表象されてきた。「少女美学」は子孫の再生産の場、つまり「母体」としてしか定義されない女性身体の拒絶を第一の特徴としている。さらにこれと関連して、物質的拘束から逃れた2次元の身体への憧れ、「成熟」を拒否するための、直線的ではない時間軸の理想化、異性愛規範に当てはまらない、少女同士のホモソーシャル・ホモセクシャルな愛情などがその他の特色として挙げられる。したがって、ここでいう「少女」とは必ずしも「若い女性」と同義ではなく、上記の特徴を兼ね備えた表象及び存在を指す。本発表では、パフォーマンス・カンパニーの指輪ホテルや現代美術家・演出家のやなぎみわが主に2000年代に発表した作品を通して、「少女美学」が現代日本のパフォーマンス、演劇、ヴィジュアル・アーツにおいてどのように表象されているかを考察したい。


シンポジウム3(英語学・英語教育)(2号館3階309教室)

考えを深める英語教育実践――Contentでは何を教え、どう評価するのか
(司会・講師)今井 純子(順天堂大学助教)
(講師)鈴木 栄(東京女子大学教授)
(講師)白井 龍馬(横浜女学院中学校高等学校英語科主任)
(講師)柳川 浩三(法政大学准教授)

言語学習の訓練を目標とするのではなく、学習内容に重点を置いた内容言語統合型授業(CLIL)が注目されているが、考えを深めることができる内容(content)では何を教え、評価をどうすべきであるのかについては様々な事例の共有が求められる。本シンポジウムでは、考えを深める英語の授業例を、高校と大学から紹介し、contentに相応しい内容とその検証について議論を深めたい。試験や資格のための学習は短期的なモティベーション向上には作用するが、深い学びに学習者を導く、内面からわき上がるモティべーションには繋がらない。深い学びに繋がるcontentは何か、教える方法にはどのようなアプローチがあるか、年齢の異なる学習者では方法と内容は異なるのか、について議論していく。高校・大学における様々な取り組みの事例紹介を通して、文脈に応じたテクスト選択をどのようにするか、テクストを使いどのように考えを深めることができるのかについて等、授業構築の参考や意見交換の場を提供したい。


汎用能力と言語運用能力を同時に育成するCLILとその評価について
 白井 龍馬(横浜女学院中学校高等学校英語科主任)

社会のグローバル化に伴い、汎用能力と語学運用能力を同時に伸ばす授業の需要は中高の教育現場で高まるばかりだ。CLIL(内容言語統合型学習)はその全ての要求に応えうるものであると考え、本校では3年前にこの指導法を導入した。海外在住経験のある生徒がほとんどいない本校においてCLILを導入することは難易度の高い挑戦であったが、カリキュラムマネジメントに工夫を凝らすことによってその課題を解決してきた。総合学習を英語で学ぶsoft CLILでは、ESD(持続可能な開発のための教育)を日本語・英語双方で深めることにより高次の教育目標実現に挑戦している。また生物や聖書を英語で学ぶhard CLILも実践しており、他教科の内容を英語で学ぶことの効果や重要性を生徒と教員が双方よく実感している。多岐にわたる授業実践の内容を報告するとともに、その評価方法についてパフォーマンス評価とその他の評価にわけて言及する。


文体論の知見を入れた児童文学講読の試行的授業
 鈴木 栄(東京女子大学教授)

実用的な英語力の育成に重きが置かれている現在の英語教育では、教材の中に含まれる文学的な読み物が激減してきているが、学習者のために編集された英語教材ではなくauthenticな読み物である英語の文学小説をEFL(English as a Foreign Language)環境における授業で使う意義はある。学生への文学作品に関するアンケートの結果を踏まえて、読みやすく教育的示唆を含むニュージーランドの作家Margaret Mahyの短編Chocolate Porridgeを題材として選び、授業を組み立てた。内容理解のために文体論の知識を紹介した。文体論という眼鏡を通して作品を読むことで学生の内容理解がどのように深まったか、言語や文化に関する発見があったか、英語で小説を読むことに関して考えが変わったか、について報告する。また、今回の試行を経て、授業の中で文学作品を英語で読む場合の、テクスト選択、指導方法、学習目標、評価方法と課題について論じる。


グローバルイシューについて考える内容言語統合型授業(CLIL)
 柳川 浩三(法政大学准教授

本発表の目的は、大学生を対象としたCLILの英語授業を通じて、三つのCLILの構成概念――Culture(文化・協同)、Cognition(認知・思考)、Communication(言語・コミュニケーション)――について学生の内部でどのように変化があったかをお伝えし、英語で内容を教える授業づくりに向けて示唆を共有することである。その3つとは、①他者と考え方や経験を共有し、多文化的・グローバルな視点をもてたか――Culture、②高次の認知能力(批判的に考える力や想像力)と低次の認知能力(説明力や応用力)にどの程度変化があったか――Cognition、③実際の授業で使われたタスク(活動)を有意義で楽しいものと感じ、本授業か英語力の向上に役立ったと思えたか――Communicationである。そして、これらの解からこの授業全体を吟味したい。授業は2018年度4月~7月下旬の半期週2回、計28回、大学生28名(2年生22名、3年生以上6名)を対象に行われた。Content(授業内容)は、差別や格差、貧困、移民問題等の地球規模的諸課題――グローバルイシュー――とした。教科書はオリジナル教材及び適宜、BBC等の放送内容を利用した。授業の最終回に、アンケートを配布し無記名で回答を依頼し、その場で回収した。本発表は、そのアンケート結果に基づいている。


「自分ごと」としての英語学習――実践から理論、そしてカリキュラム開発へ
 今井 純子(順天堂大学助教)

英語教育では、英語をグローバル語として捉える動きが定着しつつあるが、異文化や地球規模の課題を「自分ごと」として捉えさせるには、何をどのように教えたら良いのだろうか?本発表では、大学1、2年の必修英語における内容言語統合型学習(CLIL)の一例を挙げ、過去4年間の実践を振り返る。具体的には、(1)異文化コミュニケーションをテーマとする1年次授業において、エッセイ・ライティングに取り組む過程で行ったグループワークにて学生が内容と言語についておこなったディスカッション、(2)気候変動・貧困等の地球規模の課題を扱う2年次授業で、持続可能な開発目標(SDGs)を軸に授業を展開してみた後の成果物、を事例として紹介する。また、継続実施した学期末アンケートを元に、学生が学習体験をどのように捉えたか言及する。これら実践を踏まえた上で、理論に立ち戻り、今後の課題についてカリキュラム開発の視点から提言する。


【特別講演】 (16:30〜18:00)

2号館4階401教室

Plagiarisms of Charles Dickens and the role of illustration: the importance of Phis
(講師)Ian Haywood(Professor of English at the University of Roehampton, London)
(司会)大石 和欣(東京大学教授)

Charles Dickens was justifiably annoyed that Pickwick Papers and other early novels were imitated by popular publishers who catered for an expanding working-class readership. The most persistent offender was Edward Lloyd, who later became famous for his ‘penny bloods.’ Lloyd’s plagiarisms ―― The Penny Pickwick, Pickwick in America, Oliver Twiss and others ―― eventually led to a legal injunction. In this talk I will argue that visual imagery was a crucial element in Lloyd’s success and that this reflected the illustration ‘revolution’ in British fiction in the early Victorian period.


懇親会(18:10〜20:10) 
会場:教職員食堂 (2号館5階)
会費:一般4000円 学生2000円
事前申込は不要です。奮ってご参加ください。