日本英文学会関東支部第17回大会(2019年度夏季大会)についてのお知らせ

日本英文学会関東支部第17回大会(2019年度夏季大会)
日時: 2019 年 6 月 15 日(土)
会場:東洋大学白山キャンパス
(112-8606 東京都文京区白山5-28-20)
アクセス: https://www.toyo.ac.jp/ja-JP/about/access/hakusan/

開場・受付(12:20より1号館7階エレベーターホール)
【研究発表1】 (13:00〜13:40)

第1会場 (1号館7階1706教室)

視線の交錯と「見る」「見られる」「隠す」「偽る」
―Virginia WoolfからJean Rhys、Daphne du Maurierへ―
(発表)近野 幹結(慶応義塾大学大学院後期博士課程)
(司会)中嶋 英樹(多摩美術大学講師)

19世紀後半から20世紀前半にかけて女性を取り巻く社会環境は大きく変容した。それに伴い女性と視覚の関係にも変化が生まれ始める。パブリックな領域への女性の進出により、Charles-Pierre Baudelaireが描くflâneurのような男性の特権的視覚が、女性にも解放されるようになるのだ。しかし、女性と視覚の関係は、一般にフェミニスト批評で指摘されるような「見る/男性、見られる/女性」という二極化された支配構造ではなく、実際には、「隠す」「偽る」といった要素を含め、多様で複雑な様相を帯びている。本発表では、Virginia WoolfのMrs. Dalloway(1925)を出発点に、Jean RhysのAfter Leaving Mr. Mackenzie(1931)とDaphne du MaurierのRebecca(1938)のヒロインたちをめぐる視線の交錯を詳しく分析し、ジェンダー的二元論では捉えきることの出来ない女性と視覚の関係の多様性、複雑性を明らかにしていく。

第2会場 (1号館7階1710教室)

小学校外国語教育における絵本教材の活用方法についての考察
―絵本Mr Wolf’s Week を用いた外国語活動―
(発表)伊藤 摂子(武蔵野大学准教授)
(司会)関戸 冬彦(白鷗大学准教授)

2020年度からの小学校外国語教育では3年生以上の学年で英語の時間が必修化され、文部科学省から配布されている英語教材を含め、指導教材として絵本使用についても推奨されている。しかし絵本使用全般に関して、具体的な指導方法、実践方法についての指導実践や指示方法はまだ十分示されているとは言えず、特に英語指導においての専門家ではない小学校教員にはこれら絵本教材の使用方法についてはその取扱いに多くの課題を抱えているのが現状である。ワークショップ等もあるが、やはり英語が少なからず得意な教員が自らの意思で参加するものが中心となっており、現在の小学校教育のように、担任であればだれでも指導ができるようにするための指導書等がまだ十分にあるとは言えない。本発表では、中学年の指導例に掲載されている「曜日」「天気」等が扱える教材を用いて、学級担任が指導できるような指導方法と指導案の提案を通し、絵本教材の活用方法についての考察を行う。


【研究発表2】 (13:50〜14:30)

第1会場 (1号館7階1706教室)

『マイケル・K』における身体と語りの構造
(発表)西 あゆみ(一橋大学大学院博士後期課程)
(司会)小山 太一(立教大学教授)

J.M.クッツェーの代表作の一つである『マイケル・K』(1983)において、Kが沈黙することの意味は様々に評価されてきた。しかし、その沈黙が、Kが持つとされる知的障害に関係していることには、それほど注意が払われていない。そこで本発表では、Kが対外的に沈黙し知的障害を持つと判断されることと、独白や三人称の語りから伺える高い知的能力にギャップがあることを指摘し、この齟齬を可能にする語りの構造を考察する。このとき、Ato QuaysonがAesthetics Nervousness (2007)のなかで問題提起した、文学が障害を表象する際の倫理的な緊張が、この語りの構造には織り込まれていると指摘する。この語りの構造によって、「知的障害者」と分類され解釈されるKの内面性が可視化され、Kの身体経験を、寓意化を拒む固有のものとして描き出すことが可能になる。

第2会場 (1号館7階1710教室)

精読と雑談のあわい
―カード式読書トークを通じて考える文学研究的教材開発
(発表)杉本 裕代(東京都市大学専任講師)
(司会)関戸 冬彦(白鷗大学准教授)

日本の英文学研究の場、ないしは、いわゆる英文学科といった場所で、語り継ぐべき、あるいは、語り継ぎたい学びの方法とは何だろうか。その筆頭にあがるのが、精読を通じて行われる、読むという行為だろう。しかし一方で、英文学研究を通じた学びは、「読む」ことだけだっただろうか。英文学科という学びの場で、自分自身の思考を深め、物事を考察し、自分自身を変えるような刺激を得たのは、精読もさることながら、広義の英文科という場での「雑談」であったように思う。本発表は、こうした着想から、発表者が考案した(素朴な)カード式読書トークの授業実践を紹介・考察する。精読と雑談とを継ぎ目なく考えることで、精読という作業に伴う知的な作業を整理し、「読む」という行為に埋め込まれた数多くの知的スキルのうち、書かれた文字や音から連想する力や、認知的枠組みを意識することに焦点を当て、精読の面白さに気付くための素地をつくり、精読を行うための基礎力養成の方法を考えたい。


【部門別シンポジウム】 (14:50〜16:50)

シンポジウム1(イギリス文学)(1号館5階1507教室)

紹介から研究へ―若き齋藤勇の英詩講義ノート(新発見!)を読む
(司会・講師)笠原 順路(明星大学教授)
(講師)田代 尚路(大妻女子大学准教授)
(講師)木谷 厳(帝京大学准教授)

 2016年4月、明星大学の齋藤勇文庫内から、齋藤が1914年から数年かけて行った英詩講義の原稿(大学ノート約800頁、一部を除いて未刊行)がほぼ完全な形で発見された。司会者は、明星大学と当該分野の若手・中堅研究者の協力を得て、約半年かけて文字起こしを行った。
このノートは、司会者が通読した限り、作品読解を目的とした講義録として非常によく整理されているように思えた。しかし大成した齋藤の著作とはかなり違った印象も同時に受けた。「若書きの齋藤ノート発見」というセンセーショナルな興奮を差し引いても、間違いなく何かが違っていた。それは何か、また何故か、文字起こしに携わった者らでそんなことを雑談的に話しているうちにシンポジウムの構想が浮上してきた。本シンポジウムは、「齋藤ノート」の特徴を、当時齋藤が参照した文献や、大成した齋藤自身の著作、さらには後の英文学研究の動向や成果などと比較して、浮かび上がらせようとするものだ。発題は、ノートの執筆順にTennysonを田代が、P. B. Shelleyを木谷が、Keatsを鈴木喜和がやるべきところ渡英中のため代わって笠原が担当する。


美と現実―齋藤勇が読むTennysonの “The Palace of Art”
田代 尚路(大妻女子大学准教授)

齋藤勇は『文学の世界』(1958年)において、芸術は現実世界を再現するのではなく、その「精髄」を捉えるものだと主張している。「現象」(appearance)と「実在」(reality)を区別した上で、芸術はあくまで後者に関わるべきだというのである。本発表では、そのような齋藤が1914-15年時点で、Tennyson作品における芸術と現実との関係性をどのように解釈したのか考察する。Tennysonの “The Palace of Art” は、話者である「私」が自足的な美の空間を離れて現実世界に立ち戻る展開をもつのだが、それを齋藤はどう読んだのだろうか。またその読みはのちの齋藤の「実在論的」文学観とどう関係しているのだろうか。齋藤がMarshall McLuhan同様、Arthur HallamのTennyson評(「感覚の詩人」論)を重視したことにも着目しつつ、齋藤文学論の形成過程に肉薄したい。


「求めて得ざる嘆き」から「星を求める蛾のねがい」へ
―Shelley講義ノート(1917-18年)に見られる齋藤文学論の萌芽
 木谷 厳(帝京大学准教授)

2016年、新たに発見された齋藤勇の講義ノート群のうち、“Poetry of Ideality: A Study of P. B. Shelley”と題された2冊(1917-18年)において、齋藤はShelleyに内在する理想への希望と絶望の絡まり合いを「求めて得ざる嘆き」という言葉で表現している。150ページ以上を費やして論じられる齋藤のShelley観は、のちの『星を求める蛾のねがい―青年の文学』(1956年)、さらには『文学の世界(文学概論)』(1958年)第6章「静観の文学」における “a lyrical cry” をめぐる考察のような、いわゆる齋藤文学論のなかに、より教科書的に簡略化されたかたちで織り込まれている。本発表は、上記のような概説からこぼれ落ちる細部のなかに齋藤特有のShelley観を見出すことを目指す。とくに、A Defence of Poetryを論じたノート第9章と結論、補遺にあたる部分に着目し、Shelleyのロマン主義にみられる「道徳性」とそれを学ぶ意義について、当時の齋藤がどのように述べているかを報告する。


齋藤勇の “magic casements”―後の齋藤英文学を胚胎する「英詩講義ノート(Keats篇)」
 笠原 順路(明星大学教授)

齋藤が英詩のなかで最も気に入っている詩行、それは恐らくJohn Keats, “Ode to a Nightingale” の “Charm’d magic casements opening on the foam / Of perilous seas in faery lands forlorn.” (69-70) であろう。この詩行に関する齋藤の発言を、「ノート」から順次たどってゆき、大成した齋藤の文学理解の基本にある「潜勢文」と「顕勢文」という概念の根本に、齋藤が「ノート」で述べた “suggestive concentration” または “Romantic suggestiveness” という概念があることを指摘する。また、今回の「ノート」精読で発見した、齋藤の音に対する感受性についても述べる。


シンポジウム2(アメリカ文学)(1号館6階1604教室)

エスニシティとナラティブのポリティックス―信頼できない語りを中心に
(司会)牧野 理英(日本大学教授)
(講師)麻生 享志(早稲田大学教授)
(講師)余田 真也(東洋大学教授)
(講師)新田 啓子(立教大学教授)
(講師)山本 秀行(神戸大学教授)

作家にとって自身の背景を偽るナラティブほど、最も高度な筆力を問われる技法はないであろう。本シンポジウムにおける「信頼できない語り」とは、作家自身の人種的・民族的背景から離れ、さまざまな距離感や角度をもって作品に迫る芸術的手法のことを指す。奴隷制、土地の剥奪、移民法といったように、アメリカ国家内のエスニック集団に対する政策が、その文学的ナラティブの根源を迫害に対する嘆きやプロテストといったものに限定してしまっていたのが今までのエスニック文学の現状であった。しかしエスニック・ナラティブとはそのように収斂されうるものだったのか? こうした範疇からはずれた作家がすでにいたにも関わらず彼らの存在に我々が気づいていないだけなのではないか?このシンポジウムでは黒人系、アジア系、先住民系といったエスニック作家が試みた「信頼できない語り」から今日のアメリカのエスニック文学に一石を投じようとするものである。 

Duplicity と Sympathy
Viet Thanh Nguyen のThe Sympathizer (2015) が占める文学的立ち位置について
麻生 享志(早稲田大学教授)

ヴェトナム戦争終結から40年目にあたる2015年に出版され一躍注目を集めたThe Sympathizer。翌年にはヴェトナム系作家の小説として初めてピュリッツァー文学賞の栄誉に輝いた。また、作者のViet Thanh Nguyenが現役の文学研究者であったことも話題を呼び、学術誌PMLA (133.2) では理論的・方法論的視点から特集が組まれるなど、アジア系文学の枠を超えアメリカ文学の代表作としてその地位をすでに確立しつつある。
そこで本発表では、この作品における二重スパイの語り手が記す告白録の二重性および欺瞞さ(duplicity)と、そこにおける語り手の感情の動き(sympathy)に焦点をあてつつ、Invisible Manをはじめアメリカ文学主要作品への言及を多く含む本小説が占める文学的立ち位置を、Nguyen の執筆意図に照らし合わせながら考察する。


Louise Erdrichの創作法と部族性―The Plague of Doves を軸に
 余田 真也(東洋大学教授)

現代のアメリカ先住民作家のなかでもっとも精力的に執筆を継続し、また全米の文学界でも高い評価を受けているLouise Erdrichは、1984年のデビュー小説Love Medicine以来、複合的な語りや複眼的な視点を用いて部族共同体の過去と現在を切り結び、部族内の複雑な人間模様や先住民と白人との緊張関係を描いてきた。特権的な語りや視点を排して断片を積み重ねるアードリックの小説作法は、しばしばWilliam Faulknerのヨクナパトーファ・サガとも比較されるように、先住民的というよりもモダニズム的であるが、部族民の多様性と集団性を総体として浮かび上がらせるための創作上の仕掛けといえる。本発表では、19世紀末にノースダコタで起きた先住民リンチ事件を虚構化して基盤にすえ、架空の部族共同体における数世代にわたる人間関係を紡ぐ小説The Plague of Doves (2008) を主たる題材として、アードリックが物語の部族性と語りの複層性をいかに調停しているのかを考察しながら、先住民文学におけるナラティヴとエスニシティのポリティクスへと敷衍したい。


「私は3回ニグロになった」―Zora Neale Hurstonと信用の地平
 新田 啓子(立教大学教授)

昨年、Zora Neale Hurstonによる2度目のフィールドワーク(1927年)に基づいた、未刊行の成果が出版された。1859年、最後の奴隷船で米国に運ばれた「最後の奴隷」、カジョオ・ルイスの口述録Barracoonである。「黒人の生」の尊厳がいまさらながらに問題化し続けている時節柄、同書は奴隷の苦難を綴った「本当の話」として称揚された。
しかし、この触れ込みは極めて皮肉なものである。Hurstonこそは、年齢詐称や、民俗学的記述を盛ってしまう傾向や、「黒人」という集合性へ独特の懐疑を向けたことから、時に信用のおけない創作者の権化のごとく捉えられてきたからだ。もっとも文学とフォークロアの狭間に生きた彼女をこの争点から理解するのは間違いではなく、むしろ文学にエスニシティが絡んでくると何故ことさらに「信用」への疑念が生起するのか、その問いに取り組むための端緒ともなる。本発表では、件の新刊ほかHurstonの散文数編を検討し、黒人文学における信用の入り組んだ地平を探ってみたい。


中国系アメリカ人作家の疑似自叙伝における信頼できない語り手
―Frank Chin, The Confessions of a Number One Son: The Great Chinese American Novelをめぐって
 山本 秀行(神戸大学教授)

Confessions of Number One Son: The Great Chinese American Novel は、1970年代に執筆されたFrank Chinの未発表原稿が約40年の歳月を経て作家・批評家Calvin McMillinにより復元され2015年に出版されたものである。本書は、Chinの戯曲The Chickencoop Chinaman(1972)の主人公(Golford) Tam Lumが、ハワイのマウイ島に移り住み、そこでハリウッド映画で最後に中国人探偵Charlie Chanを演じた白人男優の自叙伝をゴーストライターとして執筆しようとする姿を空想と現実を織り交ぜて描いた「(メタ)疑似自叙伝」(meta-pseudo-autobiography)である。中国系アメリカ人の自叙伝をめぐっては、全米批評家協会賞(ノンフィクション)受賞作The Woman Warrior (1975)の著者 Maxine Hong KingstonとChinの間の論争が有名であるが、本発表ではこうした背景も考慮しつつ、中国系アメリカ人の「疑似自叙伝」における信頼できない語り手について考察したい。


懇親会(17:00〜19:00) 
会場:Tres Dining (8号館1階)
会費:一般4000円 学生2000円
事前申込は不要です。奮ってご参加ください。