2011年度関東支部冬季大会について
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2012年1月7日土曜日に関東支部冬季大会が早稲田大学本部キャンパスで開催されます。PDF版のプログラムは
ここからからダウンロードできます。
日本英文学会関東支部冬季大会プログラム
日時: 2012年1月7日(土)
会場: 早稲田大学 (早稲田キャンパス16号館)
〒169-8050 東京都新宿区西早稲田1-6-1
(アクセス:営団メトロ東西線早稲田駅より徒歩5分、
高田馬場駅より学バス早大正門行き乗車、終点より徒歩3分)
開場・受付開始(14:00より 16号館1階106教室前にて)
◇特別講演(14:30-16:00)(16号館1階106教室)
「文学の翻訳」から「翻訳文学」へ
(講師) 東京大学大学院教授 井上 健
(司会) 学習院大学教授 真野 泰
外国文学が翻訳されれば、それがただちに翻訳文学(literary translation)と化すわけではない。海外の文学が翻訳されて日本人読者に供される。それが、日本文学とまったく同等にではないにしても、やはり「文学」として読まれ、「文学」として流通していく。まずこれが、翻訳文学の満たすべき第一条件である。さらに翻訳文学という語感には、そうして「文学」として読まれた海外文学が、日本の文学や文化に、さらには日本語表現に確かな波動を及ぼして、時にそれらの流れや仕組みを変えるような影響力を発揮することへの、予感や期待のごときものもまた含まれているだろう。
本発表では、このような翻訳文学の可能性とその影響圏について、昭和モダニズム期から戦後まで、いくつかの具体例に即して検討してみたい。こうしたテーマに取り組む上で、翻訳学(Translation Studies)から何を学ぶべきか、何を学びうるかについても、あわせて考察してみるつもりである。
◇シンポジウム(16:10-18:10)(16号館1階106教室)
英語教育部門シンポジウム
「訳読指導の現状検証―中学校・高等学校から大学の英語教育に向けて」
(司会) 立教大学兼任講師 関戸冬彦
(講師) 開成中学・高等学校教諭 青柳良太
(講師) 慶應義塾普通部教諭 跡部 智
(講師) 神奈川大学外国語学部准教授 久保野雅史
英語教育部門では、2009年11月開催の関東支部第四回大会にて「訳読再考」と題したシンポジウムを行い、日本人の英語力向上の天敵と目される「訳読」の再評価を試みたが、今回の企画はその第二弾とも言うべきものである。
ここで言う訳読とは、先のシンポジウムの講師の一人でもあった菅原克也氏の言葉を借りれば、次のように定義できるだろう。
はじめに、英語の重要構文が、公式のようなかたちで紹介され、その訳し方が示される。つぎに、おなじ構文があらわれる例文を、訳し方のきまりに倣いながら、自分なりに訳すことが求められる。あるいは、ある程度の長さを持つテキストを、辞書や注釈を頼りに、ともかくも日本語に訳し、意味を確認し、了解する。英文解釈と呼ぶにせよ、訳読と呼ぶにせよ、それらが英語の文の細部にこだわりつつ、地道に日本語に直していく作業であることに変わりはない。(菅原克也、『英語と日本語のあいだ』、講談社現代新書、p. 80)
コミュニカティブ・アプローチの隆盛や文学作品を用いたテキストの減少により、大学の英語教育の現場からは、上述のような訳読形式の授業は、一掃されたとまでは言えないものの、積極的に忌避されるようになったことは衆目の一致するところであろう。
一方で、近年の大学生が英文を正確に読めなくなっているといった声も耳にする。これは「訳読」をしなくなったからなのだろうか。「訳読」はしているのにやはり英語が読めないのだろうか。「訳読」とは全く関係のない別の原因によるものなのだろうか。果たして「訳読」は、英語力向上を邪魔する悪弊なのか、それとも菅原氏が指摘するように、英語に触れる絶対量の少ない日本人にとって依然として有効な英語学習法なのか。「訳読」をめぐる議論はこのように多くの論点を孕んでいながら、これまでその効用や弊害について建設的、具体的な議論が充分になされてきたとは言い難い。特に、中学校・高等学校での「訳読」の現状については、我々大学教員はまだまだ知るべきところが多いのではないか。
このような認識に立ち、今回のシンポジウムでは、中学・高校での「訳読」指導の現状について現場の先生方にご報告いただき、「訳読」についての現状認識を深められればと思う。大学に入学してくる学生たちは、入学前までにどの程度「訳読」の訓練を受けているのか、あるいは受けていないのか。受けているとしたら、それは「訳読」に一定の教育効果が認められるからか、それとも、大学入試の影響なのか。中高でも「訳読」が忌避されているとしたら、それはどのような理由によるのか。「訳読」に代わるより効果的な学習法があるからなのか。あるとしたら、それはどのような学習法なのか。さらに、今後、高校の英語授業を英語で行うことになった場合、「訳読」はその役割を終えるのか。それとも、なんらかの新しい進化を遂げる可能性があるのか。
以上のような論点を中心に、「訳読」に対する講師の方々のご意見を伺いつつ、それぞれの現場での実践とその成果についてご紹介いただく。フロアの参加者も巻き込み、「訳読」について実りある議論が展開できればと思う。
●「訳読は悪くない」開成中学・高等学校教諭 青柳良太
文を木、文章を森としたときに、大学に入ってからも英語が読めない学習者に多く見られるのは、木の作りの方にばかり目が行き、一本一本の木の作りの理解を機械的につなげて森を理解したことにしているというタイプだと推察します。このような学習者が生まれる主な原因は、しばしば批判される訳読という教授法それ自体ではなく、高校、特に大学受験準備期における授業での訳読の仕方、そして素材の扱い方にあるように私は考えています。そうした原因が生まれる背景について日頃考えていることをお話しできればと思います。
●「「読み」の目的、目標、評価を考える」慶應義塾普通部教諭 跡部智
訳読はtranslationではなく、reading comprehensionのための活動ととらえ、検定教科書と多読を中心に中学校の活動を紹介したい。限られた授業時間の中でaccuracy とfluencyのバランスをどうとるか、インプットとアウトプットの質と量はどうか、読む力を測定するテストはどうあるべきか、そもそも読む力とは何か、昨今の英語力低下の原因は何か、出来れば、エビデンスに基づく議論と印象論を分けて検討していきたい。
●「原理主義から折衷主義へ」神奈川大学外国語学部准教授 久保野雅史
「訳読は善か悪か」などと、一括りにして論ずることには意味がない。「訳読式」にも(もちろん「英語で行う」授業にも)功罪があるからである。そこで「訳読式」の功罪について整理した上で、次のような具体例を挙げながら、
・「丘の上の焚き火の建物が」というような珍訳は、どうして生まれるのか?
・All you have to understand about a ‘black box’ is that …をどう誤読するのか?
「訳読」のマイナス面を補う工夫について、授業実践を紹介しながら論じてみたい。
◇研究発表(16:10-18:10)
●第1室(16号館3階305教室)(16:10-17:00)
(発表者)新潟工科大学准教授 村上世津子
(司会) 学習院大学教授 中野春夫
「一方に偏っている人は人でなしだ」:『お気に召すまま』についての一考察
逆境にめげず明るく陽気に生きようとするロザリンドはふさぎやのジェイクイズと対極の存在であるかに見えるがロザリンドの中にもmelancholyが存在する。しかもそのmelancholyは一時的なものではなく劇の最後まで持続する。ただしジェイクイズとロザリンドの間には大きな違いがある。ロザリンドは憂鬱に身を浸す代わりに「陽気にしてくれる阿呆と一緒に」いて憂鬱を紛らす努力をするのである。ロザリンドはオーランドゥもまた環境の影響下にあることを知っている。このことは劇の終りで彼女を沈黙させる。しかしロザリンドは「どこに出しても売れる玉」でなければ「売れる時に売っておく」のが賢明だと考える現実主義者である。ロザリンドは沈黙しても失望はしない。ロザリンドのmelancholyは劇の終わりまで存在し続けるがジェイクイズのそれと異なり潜在的なものに留まるのである。
●第2室(16号館3階308教室)(16:10-17:00)
(発表者)東京女子大学大学院 長田舞
(司会) 早稲田大学教授 木村晶子
「望まれた結末と隠された真相:The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde における語りの構造」
Robert Louis StevensonのThe Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde (1886)は異なる語り手による10の挿話によって構成されており、各挿話は互いに寄生し合いながら物語を形成している。ある挿話の信憑性を保つためには、他者によって語られた別の挿話の存在が必要であり、各挿話は互いに不足している部分を補い合いながら展開し、作品の結末――HENREY JEKYLL’S FULL STATEMENT OF THE CASE――へ向かっていく。本発表においては、作品の内部には隠された真相(真相B)が存在していると仮説をたて、望まれた結末(真相A)である作品の最終章HENREY JEKYLL’S FULL STATEMENT OF THE CASEを導き出すために、作品の語りがどのように構成されているのか分析する。その際、作品中でおこなわれている証拠品に対する解釈の分析とDr. JekyllとMr. Hyde の外見の分析をおこなう。さらに、二重人格という病理が作品においてどのように悪用されているのか指摘し、隠された真相(真相B)の存在を立証していきたい。
●第1室(16号館3階305教室)(17:10-18:00)
(発表者)学習院大学助教 土井雅之
(司会) 専修大学教授 末廣 幹
「亡霊の台詞を聞き逃すな:亡霊の登場場面からHamletを考える」
Shakespeare作品の中で最長を誇るHamletでよく省略される場面の一つが亡霊の登場場面、一幕一場である。
確かに、何も言わずに二度現われ二度消えるだけの亡霊は不必要にさえ思える。だが、一幕五場で発せられる亡霊の台詞に、観客の注意が最大限に向けられるようにする仕掛けがそこに施されている。本論では、Claudiusの我欲が自然の成り行きを醜く歪めたことを衝撃的に伝える亡霊の台詞が、Hamletを楽しむ上で欠かせない主要点であることを、次の三つの段階から論じたい。一つに、亡霊に呼び掛けるHoratioの台詞は、亡霊の存在を怪しんでいる観客が、亡霊が何を語り出すかを期待するように仕向ける導線の始点であることを指摘する。二つに、Hamletの亡霊がいかに異常な要求をするのかを、当時の亡霊像や先行作品と比較しながら考察する。三つに、劇全体の問題点、兄王暗殺、近親相姦、王位簒奪を強調する亡霊の言葉が、復讐の解釈に与える影響を読み解く。
●第2室(16号館3階308教室)(17:10-18:00)
(発表者)一橋大学大学院 木原健次
(司会) 成蹊大学准教授 権田建二
「孤独な連帯:ポピュラー・フロントと統計技術を背景に読むThe Heart is a Lonely Hunter」
カーソン・マッカラーズの第一作The Heart is a Lonely Hunter (1940)への批評において、G・スピヴァクは、各登場人物が体現する人種、階級、性をめぐる諸闘争間の連帯不能性が小説の中心的議題であると指摘した。
本発表の企図は、彼女の主張を踏まえた上で、小説を30年代の文脈に位置づけて読むことにより、連帯の問題を歴史的に再考し、従来先行研究が注目してきた孤独や疎外といった南部的問題系に新たな光を当てることである。
特に本発表が注目する背景は、30年代半ばから台頭してきたポピュラー・フロント(PF)の文化的影響力と、同時代の統計技術の発達がもたらした平均概念の浸透である。主目的を異にする諸政治主体から成る連合体であり、共産主義者やリベラル派と行動を共にしつつも、党や政府とは異なった独自の文化を創出していたPFの政治性と、当時の技術革新による統計的想像力の浸透とが、本作の内容的・形式的異種混淆性のうちに見出せる。
●第3室(16号館3階303教室)(17:10-18:00)
(発表者)東京大学大学院・客員研究員 高村峰生
(司会) 慶應義塾大学教授 武藤浩史
「感覚の分割:D.H.LawrenceとMerleau-Pontyのセザンヌ論を交叉的(キアスミック)に読む」
セザンヌの絵画は、D.H.LawrenceとMerleau-Pontyの両者にとって各々の思考の契機となるような重要性を有している。
ロレンスは後期のエッセイにおいて、写真的な世界の了解を身体性が欠落したものとして批判し、それとは対照的にセザンヌの絵画を物質の触覚性を視覚芸術のうちに取り戻すものとして賞賛している。ロレンスにとって触覚は存在の根源に触れる感覚であり、視覚中心主義的な西洋文明に対して革命性を持つものであった。メルロ=ポンティは身体を「触れる―触れられる」という能動と受動の二つの「葉」の絡み合った場所(キアスム)として提示しており、セザンヌの非遠近法的絵画は生きられた空間を形象化したものとして肯定的に参照されている。ハイデガーの影響の強い後期著作(特に『見えるものと見えないもの』や『受動性』講義ノート)では、このような二重性が身体の超越的位相の根拠とされ、セザンヌはそれを画布に定着した表現者として賞賛されている。本発表では、ロレンスとメルロ=ポンティのセザンヌ論を読みながら、両者に共通して現れる視覚と触覚の「感覚の分割」への批判の意義を検討する。
◇懇親会(18:30-20:30)
会場:大隈ガーデンハウスカフェテリア(TEL: 03-5273-8101)
会費:4,000円(学生2,000円)
事前申込は不要です。奮ってご参加ください。