2026年1月22日
会員著書案内| 著者名 | 署名 | 出版社 | 出版年 |
|---|---|---|---|
| 田中 孝信 | 『世紀末イースト・エンドとスラム小説――ヴィクトリア朝ロンドンにおける貧困の表象』 | 彩流社 | 2026年 |
【梗概】
19世紀末から20世紀初期にかけて、イギリス帝国の首都ロンドンの一角を占めるイースト・エンドは、都市の貧困を象徴するスラムであった。中流・上流階級の女性たちの貧民家庭への訪問活動に加え、ジャーナリストや社会改良家は貧困の実態を解明し、その撲滅に取り組もうとする。宗教家やオックスブリッジの学生は、セツルメント活動に従事する。彼らは罪悪感ゆえに、貧民の救済活動に駆り立てられたのである。しかし一方で、マッチ女工のストライキ、「切り裂きジャック」事件、ドック・ストライキは労働者階級や貧民への恐怖心を、第二次・第三次選挙法改正は一人一票の民主主義への不安感を体制側の人々に引き起こす。ディズレイリが「二つの国民」と表現した分断が、富裕なウェスト・エンドと貧困のイースト・エンドの対立となって表面化したのである。
そうした背景のもと、小説家たちも、事実とフィクションを織り交ぜ、時にセンチメンタリズムやセンセーショナリズムに頼り、「深淵」や「暗黒大陸」といったレトリックを用いてイースト・エンドに分け入る。序章・9章・終章から成る本書は、彼らが著した幾篇かのスラム小説を社会背景と絡めて分析することで、労働者階級や貧民に対する複雑な心的態度を明らかにしようとするものである。
多くのスラム小説家たちが、貧困の実態を提示することで、読者に貧民への共感を喚起しようとしたり、読者に問題意識を植えつけようとした。ベサントはその地区の問題を卑しさと単調さにあるとし、中流階級の文化の伝搬に解決策を見出す。モリソンは最下層民や極貧民の犯罪と暴力の日常をリアリスティックに描き出す。ハークネスは、貧民の側に立って彼らの悲惨な生活を真摯に描き、階級の壁を越えた、「弱者」である女性同士の連帯を訴えるのだった。
しかし、忘れてならないのは。ほとんどの作家が中流階級に属している以上、労働者階級や貧民に対して公平無私な姿勢をとることは不可能であるということだ。彼らの態度には、想像力に基づく一方的な解釈や偏見が生じてくる。それに基づいて彼らは、労働者階級や貧民と自分たちとの差別化を、無意識にせよ、図っているのである。したがって、作品からは、貧民に対する憐憫の情だけでなく、恐怖心はもちろんのこと、優越感や嫌悪感を読み取ることができる。いや、それだけではない。作家たちにとって、イースト・エンドという未知の混沌とした世界は、自分たちが属する秩序とリスペクタビリティの世界からの解放をもたらす魅力を帯びた空間でもあるのだ。それが、中国人移民と白人女性の関係をテーマとしたバークの作品に描き出される。
世紀末イースト・エンドは、イギリスが孕む社会的、政治的、経済的、文化的諸問題を凝縮した空間であり、そこを舞台に繰り広げられる人間模様を描き出したスラム小説を読み解くことは、スラム住民の生活を知るのみならず、それを著した中流階級人の眼差しが帯びる多様で矛盾した意味を私たちに考えさせてくれる。そうした眼差しの対象となったスラム住民は、自分たちの世界への中流・上流階級人の侵入をどう捉えていたのだろうか。両者の間に見られる微妙な緊張関係は、移民を始めとした様々な「他者」から成る現代社会にも通底する、私たちが直視すべき問題なのである。
【目次】
序章 いざイースト・エンドへ!
一 世紀末イースト・エンドとは?
二 スラミングから慈善活動へ
三 スラム小説と本書の目的
第一章 ウォルター・ベサント『あらゆる種類と階級の人びと』
――文化的慈善活動と語りの戦略
一 娯楽は理想的な救済策なのか?
二 「あり得ない物語」と労働者の「女性化」
三 文化的植民地主義と父親的温情主義
四 「労働者階級のロマンス」の限界
第二章 ジョージ・ギッシング『地獄』
――女性の身体表象に見る労働者階級観
一 ギッシングの両価感情
二 クレム・ペコヴァの身体が帯びる獣性
三 クレアラ・ヒューイットの身体が帯びる官能性
四 労働者階級女性のエネルギー
第三章 アーサー・モリソン『ジェイゴーの子ども』
――最下層民と極貧民に対する作者の距離
一 「よそ者」モリソン
二 逆さま世界としてのジェイゴー
三 退化への恐怖の物語
四 スラム住民への拭えぬ不安
第四章 チャールズ・ディケンズ『荒涼館』
――スラム、汚穢、そしてエスター
一 「ロンドンのある夜の光景」解読
二 汚穢と不適切な死
三 エスターのセクシュアリティ
四 スラムと中流階級女性の結びつき
第五章 マーガレット・ハークネスのイースト・エンド三部作
――母性愛と女性の連帯
一 労働者階級の女性たちに対するハークネスの眼差し
二 『都会の少女』における母性愛
三 『失業中』における偽善、暴力、そして男性権力
四 『ローブ大尉』における女性の連帯
五 階級闘争はジェンダー闘争
第六章 慈善活動に駆り立てられる淑女たち
――男性支配からの解放
一 慈善活動の背後に蠢く欲求
二 男性支配からの解放
三 女同士の絆とレズビアニズム
四 新たな自己の発見
第七章 博愛か偽善か?
――貧しい子どもたちへの眼差し
一 眼差しの複層性
二 犠牲者としての子ども
三 野蛮人としての子ども
四 子どものエネルギー礼賛
五 管理される子ども
六 博愛に潜む偽善
第八章 ジャック・ロンドン『どん底の人びと』
――貧しい男たちの身体表象
一 貧民に対するロンドンの心的態度
二 スラム言説の再生産とそれからの逸脱
三 貧民との距離と恐怖
四 最善のイギリス人の子孫としてのアメリカ人
五 同情と距離との複雑な絡み合い
第九章 トマス・バーク『ライムハウスの夜』
――「オリエンタルなロンドン」の誘惑
一 イギリス人の中国人観
二 中国人男性と白人女性の愛憎関係
三 チャイナタウンというカーニヴァル空間
四 帝国の中心イースト・エンド
終章 イースト・エンドへの止むことなき関心
一 スラム小説に見る両義性
二 現代のイースト・エンドが帯びる潜勢力
あとがき
初出一覧
関連年表
図版出典一覧
引用・参考文献
索引