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2025年6月8日

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著者名 署名 出版社 出版年
川村由美 『J・M・クッツェー 命をめぐる思索――『夷狄を待ちながら』から『恥辱』へ』 水声社 2025年

【梗概】
 「世界の苦しみの現実に、私は一人の人間として、一個の人格として、圧倒され、私の思考は混乱と無力感に陥っている。そしてその苦しみとは人間の苦しみばかりではない。私のフィクションの構築は、そのように圧倒されることへの取るに足らぬこっけいな防衛なのだ」(Doubling the Point 248) と、南アフリカ出身の作家J・M・クッツェー(1940–)は語っている。本書はこの地点から生じる作家の思索の軌跡を、二つの代表作――『夷狄を待ちながら』(1980年)と『恥辱』(1999年)――にたどる。
 本書はまずテキサス大学ハリー・ランサム・センターが所蔵するクッツェーの創作ノートを丹念に読み解くことで、一見する限りは別個の作品である二作品に、反復かつ続編的関係性を見出している。その上で『夷狄を待ちながら』の世界を過去、アパルトヘイト後の『恥辱』の世界を現在と位置づけ、過去から未来への展望へといたる作家の思索を追う。そしてそれが「命」という一つの核をめぐるものであること、とりわけ「他者の命」に重点が置かれ、人間ばかりではなく動物をも含めた「他者の命を命そのものとしていかに感じ取るか」という問いが立てられていることを明らかにしていく。
 これは同時に作家の苦闘を見つめることをも意味している。というのもクッツェーの思索はポストモダン思想が示した現実把握のなかにある。そこでは言葉が真実に――他者の真実はもちろん、自分の真実にさえも――到達し得ない。このような現実のなかで彼は見失われた他者の命のリアリティーを見出し、言葉によってその命を回復させようとする。いいかえればクッツェーの思索をたどることは、伝達機能が失われた言葉から、その機能を取り戻すという不可能な試みに挑む作家の姿を見つめることでもあるのだ。
 本書は五つの章から成り、各章で扱うおおよその内容は次の通りである。第一章では、『夷狄を待ちながら』の行政長官が帝国による他者への暴力を目の当たりにしながら、彼自身のなかに同様の暴力性を自覚していく過程を見つめる。第二章では、『恥辱』のデイヴィッドに焦点を当て、両作の続編的関係が創作ノートからどのように読み取れるかを検討する。第三章では、父娘の構図を手がかりに、デイヴィッドと女性たちの関係を通して支配と暴力の連鎖が検討される。第四章では、デイヴィッドのオペラ創作や殺処分される動物たち――特に安楽死のかたちで命を絶たれる犬たち――との関わりに着目しながら、暴力の連鎖に対抗する普遍的倫理の模索を見つめる。第五章では、デイヴィッドの娘ルーシーに注目し、彼女の生き方に従来のヒエラルキーを解体し「犬のように」生きることの肯定的意味を見出していく。
 このようにして、本書はJ・M・クッツェーの『夷狄を待ちながら』と『恥辱』の両作を貫く命をめぐる思索、そして見失われた他者の命を回復させようとする作家の姿を見つめている。

【目次】
はじめに
第一章 過去――死の二つの意味 
 1 死の二重性について
 2 「だれも死に値しない」
 3 読めないという意志
 4 夢――もう一つの物語
 5 最終シーンについて
第二章 過去から現在――生と死のパターン
 1 『夷狄を待ちながら』の創作ノートに記された初期構想
 2 『夷狄を待ちながら』の初期構想と完成版『夷狄を待ちながら』
 3 『夷狄を待ちながら』の初期構想と『恥辱』
 4 反復であり続編であること
 5 『夷狄を待ちながら』その後 
第三章 現在――父娘のパターン 
 1 『恥辱』以前――『夷狄を待ちながら』の創作ノートおよび『夷狄を待ちながら』における父娘関係
 2 ソラヤとその父
 3 メラニーとその父
 4 デイヴィッドとルーシー
 5 デイヴィッドとペトラス
第四章 現在から未来へ――オペラと犬
 1 イタリアのバイロン
 2 オペラ構想の変更――デイヴィッドの変化
 3 情熱の欠如
 4 犬――二つのグループ
 5 犬の火葬
 6 『夷狄を待ちながら』の創作ノート――死者の埋葬
 7 不死の願い
 8 愛について――ドリーポート
第五章 未来へ――ルーシー
 1 死の影
 2 ルーシーの抵抗
 3 ヒエラルキーの解消――ルーシーの成長
 4 マイケル・Kとルーシー
 5 新たな世界へ――処女懐胎の物語
おわりに
あとがき
引用文献

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