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2023年6月7日

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著者名 書名 出版社 出版年
舟川 一彦 著 『ウォルター・ペイターのギリシア研究』 金星堂 2023


【梗概】
 古代ギリシアの哲学、宗教、美術をめぐるペイターの著作は、19世紀の文化・思想状況に対する彼の反応でもある。この本は、教会や大学の状況、出版界と読書界の変化、知識人間のコネクション等を文脈として彼の古典研究の同時代的意味を探る。
 第1章では『プラトンとプラトン哲学』をおもな材料として、オクスフォード大学およびその教育理念に対する彼の態度を考察する。1990年代以降、新歴史主義とジェンダー批評を組み合わせて、彼を当時の大学の体制への徹底的な反撥者そして20世紀的「同性愛解放」の先駆者と見做すアプローチがペイター研究の主流を占めるようになり、当時のオクスフォードの教育と研究に関する公式見解を代表するベンジャミン・ジャウエットとペイターの敵対関係がいやが上にも強調された。が、『プラトンとプラトン哲学』から判断する限り、古典人文学についてのペイターの立場は、試験偏重に対する批判的な姿勢を除いて、基本的にはジャウエット(つまりオクスフォード大学)の理念を概ね正当化するものであり、近年の批評家たちが主張するほど過激なものではなかった。
 第2章は、『ギリシア研究』の前半を構成するギリシア神話についての論考を扱う。オクスフォード大学の内部に向けて語った講義の記録である『プラトンとプラトン哲学』と対照的に、ペイターのギリシア神話論は、バーミンガムの非国教系勢力が運営する市民講座で講義したり、急進派ジョン・モーリーが編集者を務めた『フォートナイトリー・リヴュー』に発表したりしたものだった。このオーディエンスの違いと連動するかのように、神話論におけるペイターは、オクスフォード流の古典学から排除されていた人類学等の新興科学的アプローチを取り入れてギリシア精神の暗い原始的・非理性的な古層を明るみに出し、当時のドイツおよびイギリスの正統的ヘレニズムに定着していた〈理性的・文明的で明朗なギリシア〉のイメージに反する新しいギリシア観を打ち出した。
 第3章の考察対象は『ギリシア研究』の後半部をなすギリシア美術論である。神話論の中でギリシア宗教の土俗的・非文明的な面に光を当てたペイターだが、彼はこの原始的宗教が近代文明やキリスト教に近い洗練された宗教へと発展してゆく潜在力を内蔵していたことを説明するために、ギリシア彫刻が高度の倫理的観念を表現する能力を秘めていたという仮説を立てていた。それを実例によって証明するのが一連の美術論エッセイの目的だったと思われる。ペイターの突然の死によってこの目的は果たされなかったが、彼はフィクションである「ピカルディーのアポロン」と『享楽主義者マリウス』の中で彫刻的登場人物が倫理的観念を体現する場面を描き、文学的想像力の中で仮説を証明していたと言えなくもない。
 『ルネサンス』初版出版後に国教会および大学の権威筋から浴びせられた批判に対処するために、『プラトンとプラトン哲学』では学内向けに、『ギリシア研究』では学外の広い読者層向けに、自身の思想的立場を説明しようとしたペイターが採ったのは、ものごとを軽々に断定しない「判断の留保」という慎重な戦術だった。


【目次】
まえがき
短い序章
第一章 オクスフォードのペイター―プラトン論と大学教育の問題
  伝記批評の可能性
  ペイターのオクスフォード
  試験の功罪
  愛と服従による教育
  煮え切らぬ結論
第二章 ギリシア神話論と十九世紀古典学の新方向
  『ルネサンス』のトラウマ
  古代研究の新機軸
  市民講座とニュー・メディア
  結び
第三章 彫刻は倫理的観念の伝達者たりうるか
  彫刻論のプラン
  藝術の倫理性と近代的任務
  彫刻論の展開
  アポロンとディオニュソスの統合
判断の留保―結びに代えて

引証文献表
索引


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