シンポジウム概要
英米文学者が映画を語り論ずることはごくごく自然なように思われる。巷間には、英米文学者が執筆した映画論が溢れている。さらに、映画を通じて英米文化論を語る教科書も多数発刊されている。そして、学生の「文学離れ」を当然の前提としなければならない大学教育の現場では、英文科の「イギリス文学史」などの授業でも、映画を頻繁に見せて、受講生の関心を惹きつけることは避けられなくなっている。
本シンポジウムでは、このような状況で、あえて「英文学者は映画を語れるか」という問題提起を行いたい。すなわち、英文学者独特の映像リテラシーというものがありうるのかを模索したい。これまでにも英米文学者の学会、とくに作家別学会では、「~と映画」というようなシンポジウムが企画されたこともあった。しかし、そのような場でも、英米文学者の映画リテラシーをどのように考えるのかというメタレヴェルの問題が意識されることなく、文学作品の映画化を取り上げ、原作と映画を比較した上で、映画が原作と著しく乖離する点を批判したり評価したりするという王道の――ある意味で紋切り型の――アプローチが採用されることが少なくなかったように思われる。
本シンポジウムでは、文学研究と映画研究のいずれの分野でも注目すべき研究を行われている方を講師としてお招きし、英文学研究は、映画研究との〈対話〉を通じて、どのように映像リテラシーを確立しうるかのか、意見交換してみたい。さらには、そのような英文学者独特の映像リテラシーが、閉塞状態にある英文学研究/教育にどのような貢献ができるのかも議論してみたい。
各講師の発表要旨は以下の通りである。
ニヴン・ブッシュとアンソニー・マン――心象の地形 専修大学准教授 小山太一
本発表では、1940-50年代における西部劇のサイコロジカル化に深く関わった小説家・脚本家のニヴン・ブッシュ(Niven Busch)の小説 The Furies と1950年のアンソニー・マン(Anthony Mann)監督の映画(日本未公開、『復讐の荒野』としてテレビ放映)を比較検討し、小説と映像空間の響き合いを論じる。
小説から映画へ――『長距離走者の孤独』における「孤独」の表象 慶應義塾大学准教授 佐藤 元状
本発表では、アラン・シリトー(Alan Sillitoe)の短編小説「長距離走者の孤独」と1962年のトニー・リチャードソン(Tony Richardson)の長編映画『長距離走者の孤独』を比較し、小説から映画へのメディアの跳躍が行われるときに、どのような変換が行われているのかを「孤独」の表象という観点から考察する。
ジェイン・オースティンの作品と映像 中央大学教授 新井潤美
本発表では、ジェイン・オースティンの小説、それを映像化した作品を扱う。特に、まったく違う時代や文化的背景を使った、Clueless(エイミー・ヘッカリング監督、Emmaの現代版)や、Bride and Prejudice(グリンダル・チャダー監督、Pride and PrejudiceのBollywood版)をとりあげ、「翻案」を「原作」とは独立した一つの作品として見ることの可能性を探っていきたい。
司会 専修大学教授 末廣 幹
講演要旨
Paradoxia Clarissima:『クラリッサ』とイギリス小説の来し方、行く末 東京女子大学教授 原 英一
『クラリッサ』はパラドックスに満ちている。親孝行のはずのヒロインは親が決めた結婚を拒否し頑強に抵抗する、洗練された上流紳士ラヴレイスはロンドンの地下世界の帝王だ、クラリッサのレイプは彼女の最終的勝利につながる、等々。究極のパラドックスは、聖女のような彼女が債務者監獄に閉じ込められることだ。なぜ「美徳」はこれほどまでに迫害され、レイプされ、「罰せられ」なければならないのか。フィールディング(『アミーリア』)も、ゴールドスミス(『ウェイクフィールドの牧師』)も、善なる人間が幽閉される債務者監獄を描いていて、示唆的ではある。しかし、パラドックスの入れ子構造ともいうべき『クラリッサ』は、16世紀半ばの道徳劇『放蕩兄妹』に始まり19世紀ディケンズの監獄(マーシャルシーとニューゲイト)へと流れる系譜を見るとき、はじめてその真の相貌を現す。聖女クラリッサの「美徳の不幸」の中にサド侯爵が洞察した「悪徳の栄え」という鏡像を、イギリス小説史の文脈で捉えなおしてみる。
司会 東京女子大学教授 原田 範行
研究発表要旨
W. B. Yeats, “The Circus Animals’ Desertion” におけるテーマの解放 東京大学大学院博士課程 柿原妙子
“The Circus Animals’ Desertion” は、「テーマ」がもはや見出せないと嘆く「私」が過去の自作を回想し、新たな出発を決意するという内容だが、この詩から読み取ることができるのはそのような老詩人の嘆きや決意だけではない。むしろ注目すべきはイェイツ自身が最晩年になってようやく気づいた “heart mysteries” の告白であろう。本発表では、まずこの詩の題名を分析し、通常は「動物たち(テーマ)が私を見捨てる」と受取られているものの、主体と客体が曖昧にされているため、実は「私が動物たちを見捨てる」という解釈も可能であることを指摘する。次に、回想される過去の3作品の選択に関して、それらがどれもアイルランドを題材にしたものであり、またどれも精神的飢餓を扱っているという隠された共通点があることを確認する。イギリスの圧政に苦しみ、かつトラウマ的大飢饉を繰り返し経験してきたアイルランドも、自分の居場所を求めて歌い続けたイェイツ自身も、共に満たされない精神的飢餓を抱えていた。イェイツは自分の飢餓感がアイルランドに美しい視覚的イメージを求め、その美に抗えなくなったこと、その結果、イメージと自分の間に魔法にも喩えられるような互いに引き合う強い力が作用していたことに気づいたのである。そのような心の秘密を認識し、彼は長く自分に棲みついていたイメージたちと訣別しようとする。「テーマ」を解放することは「私」が解放されることであり、それによって詩人の再出発が可能になるのである。
司会 青山学院大学教授 伊達直之
「『パワー・オブ・ブラックネス』――The Emperor Jones」 慶應義塾大学非常勤講師 清水純子
The Emperor Jonesは、母国アメリカの刑務所を脱獄して、南の島で皇帝にのし上がった前科者の黒人Brutus Jonesの栄枯盛衰を描く。The Emperor Jonesは、エスニシティーとしてのブラック、夜と森の奥深い闇を意味する自然現象としてのブラック、さらに人間の心の奥深く隠された深層心理としてのブラックが躍動する世界である。
Eugene O’Neillは、「ブラック」という色の持つ意味と効果を最大限に発揮させて、前代未聞の実験的作品The Emperor Jonesの上演に成功した。黒い肌を持つ男を主人公に起用し、夜の暗い森の中で人間の心の暗黒に潜む黒い罪と暗い過去を体現し、人間の無意識に蠢く得体の知れない恐怖を表現主義の手法を用いて舞台の上に描いた。名著The Power of Blacknessを著したHarry Levinは、アメリカ小説の古典的大家Edgar Allan Poe、Herman Melvilleの共通の特徴を“The American Nightmare”を表すブラックであると述べるが、この指摘は、「アメリカ演劇の父」と呼ばれるO’Neillの特質を言い当てている。Levinも認めるように(Levin 235)、O’Neillは、『夜への長い旅路』などの悲観的な人生のとらえ方によって、他のアメリカの劇作家よりも「闇の力」を探ることに大きな功績があった。
司会 和光大学准教授 中田崇
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