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著者名 書名 出版社 出版年
山辺省太 フラナリー・オコナーの受動性と暴力――文学と神学の狭間で 彩流社 2019

【梗概】
本書はフラナリー・オコナーが描く暴力的な文学/神学世界において、どのように登場人物の主体性が奪われ、神の啓示の前で受動的な存在になるかを論じたものである。
序章においては、本書が着目するオコナー文学の「暴力」、「受動性」、「神の恩寵」、「文学と神学」などのテーマに言及し、その現代的意義を考察した。とりわけ、本書のタイトルにもなっている「受動性」はエマニュエル・レヴィナスの思想に依存しているため、彼の哲学がオコナーの文学世界とどう重なり合うか/重なり合わないかについて吟味した。また、当時の文学潮流――新批評――がオコナーの創作に多大な影響を及ぼしたことを確認しつつも、オコナーの文学/神学世界が新批評の枠内に決して収まらないことを指摘した。それ以外でも、芥川龍之介や宮沢賢治などの文学世界との比較を行いながら、文学と神学の境界を行き来するオコナーの文学力についての検証も試みた。
第T部は二つの章から成り立っている。その一つ、「彷徨の身体」では、『賢い血』の主人公ヘイゼル・モーツの不安定な知覚作用は、現代において神を表象することの難しさを示していることを確認し、もう一つの「物質と秘跡のリアリティ」では、結婚や洗礼といったカソリックのサクラメントを文学において描く際にオコナーが重要視したのは、崇高な精神性ではなくどこにでもある卑近な創造物であることを確認した。
第U部は本書の核であるが、「倫理、暴力、非在」という章においてはオコナーの暴力性がどのように神の倫理と結びつくかを、そして主人公が他者の暴力を受動的に体験することでどのような神的可能性が開示するのかを、レヴィナスとジャック・デリダの思想を下地にしながら考察した。また、もう一つの論考、「アクチュアリティ、グロテスク、『パーカーの背中』」では、意に反して子どもを授かった放恣な主人公がその事実を受動的に受け入れることで浮上する啓示の内実について論じた。
第V部では聖書の「ヨハネの黙示録」において示される神の国の降臨の瞬間を、オコナーは文学世界においてどのように描いたかを分析した。一つの論考では終末と時間の関係をフランク・カーモードの議論に照射しながら、もう一つの論考では現実の創造世界を無視して安易に超越的世界を希求することの危うさを、幾つかの短編を基に論じた。
第W部は三つの章から成り立っている。神学的な議論から少し離れ、第二次大戦後のアメリカの政治的力学とオコナーの文学がどのように交差するかを、「生の政治と死の宗教」という論考ではロバート・ベラが提唱した「市民宗教」を補助線にしながら、またもう一つの「農園から共同体へ」では、マルティン・ハイデガーの思想とアイデンティティの議論枠を用いながら精査した。最後の章ではエイブラハム・リンカンの「奴隷解放宣言」に潜む偽善とオコナーの作品に描かれる偽善を比較し、またデリダが『法の力』で論じている「神話的暴力」の概念を援用しながら、単に偽善を批判するのではなく、その宗教的/政治的可能性について論じた。


【目次】
序章 文学と神学の狭間で

第T部 秘義における物質と知覚
第一章 彷徨の身体――『賢い血』と不安定な神の表象
第二章 物質と秘跡のリアリティ――「グリーンリーフ」と「川」にみられる文 学の美学と創造世界の表象

第U部 受動性という倫理――他者の歓待と神の恩寵
第三章 倫理、暴力、非在――「善人はなかなかいない」と「善良な田舎者」における善と他者
第四章 アクチュアリティ、グロテスク、「パーカーの背中」――行為、融合、再創造

第V部 オコナーの終末的光景――想像力、時間、現実性
第五章 不可解な黒さと虚構の力学――「作り物の黒人」と「高く昇って一点へ」の差異と終わりの意識
第六章 故郷、煉獄、飛翔――「永く続く悪寒」における神の降臨と時間の詩学

第W部 共同体/国家における政治と宗教
第七章 農園から共同体へ――「強制追放者」におけるアイデンティティの構築と崩壊
第八章 生の政治と死の宗教――『激しく攻める者はこれを奪う』
第九章 偽善と暴力の相補――「奴隷解放宣言」と「高く昇って一点へ」

あとがき
引用文献一覧
索引

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