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著者名 書名 出版社 出版年
荘中孝之、三村尚央、森川慎也編 『カズオ・イシグロの視線――記憶・想像・郷愁』 作品社 2018

【梗概】

 本書は、2018年現在まで刊行されているカズオ・イシグロの全長篇小説と短篇集を読み直し、彼の文学の全体像を新たに提示した論集である。記憶・想像・郷愁が原動力となって構築されるその作品世界には作者の眼差しが隈なく行き届いている。11名の著者は、それぞれの手法で、イシグロの視線の先にあるものを捉えている。

 本書は大きく二つに分かれる。前半の八編は各作品を出版年順に論じている。各論考の手法・着眼点は異なるが、八編を通読すれば、イシグロ文学に通底する主題の展開や奥行きが立体的に理解されるはずである。後半は俯瞰的な視座(影響・文化・教育・思想)から彼の文学を考察した四編が続く。

 まず前半の八編を紹介する。荘中孝之は、『遠い山なみの光』で描かれる湿地を、不気味さとともに安らぎを喚起する主人公の女性にとっての避難所(母親の胎内)の象徴として捉え直す。池園宏は、『浮世の画家』における主従関係(師弟、家族、国家・個人)に着目し、超越と抑圧という矛盾する小野の志向を吟味した上で、彼の自己評価を問う。斎藤兆史は、『日の名残り』の読者が、語りを疑う一方で、会話を信用する「からくり」を明らかにし、結末で語りと会話の乖離が解消されると結論づける。三村尚央は、コスモポリタン的文脈の中で読まれることが多い『充たされざる者』を、執筆時のイギリスで混迷を深めていたシティズンシップをめぐる言説から読み直す。菅野素子は、『わたしたちが孤児だったころ』の舞台となる上海と英国の描写に、二十世紀のヨーロッパに関する作者の時代認識を看取する。長柄裕美は、『わたしを離さないで』と『忘れられた巨人』に共通して描かれる愛という幻想が、死を相殺する力になりうるのかを哲学的に考究する。荘中孝之は、短篇集『夜想曲集』の非英語圏の作中人物が用いる「透明な」英語に英語覇権主義的世界観を観取し、英語母語話者の人物造型にその世界観に対する作者の抵抗を読み取る。中島彩佳は、『忘れられた巨人』を集合的記憶と対峙する普遍的状況の寓話と捉え、雌竜クエリグに象徴される半ば受動的な意志的忘却と正史のイデオロギーとの共犯を示す。

 次に後半の四編を紹介する。武富利亜は、小津安二郎や成瀬巳喜男の映画と川端康成の文学の影響を指摘し、特に日本映画がイシグロの個人的な記憶を覚醒させ、初期作品の創作に繋がったと論じる。金子幸男は、『日の名残り』の主題となるイングリッシュネスを、田園風景やカントリーハウスの表象、語り手による新たな自己像の構築(の失敗)に関連づけて掘り下げる。五十嵐博久は、『遠い山なみの光』が「自らを相対視する姿勢」を養うための大学教養課程レベルの英語教材に適していることを授業実践で示す。森川慎也は、イシグロの思想的概念(パースペクティヴ、コントロール、受容)を検討し、彼の運命観の形成過程を辿る。

本書はイシグロ文学を網羅的に論じた最新の研究書であり、その文学の見取り図を示した案内書でもある。巻末の作品紹介、年譜、文献案内は、専門家・一般読者を問わず、有益な情報となるだろう。 

目次

まえがき 6
記憶の奥底に横たわるもの――『遠い山なみの光』における湿地 荘中孝之 13
芸術と家族を巡る葛藤――『浮世の画家』における主従関係  池園宏 35
『日の名残り』というテクストのからくり  斎藤兆史  67
『充たされざる者』をシティズンシップ小説として読み解く  三村尚央  88
二十世紀を駆け抜けて――『わたしたちが孤児だったころ』における語り手の世界と「混雑」した時代の表象  菅野素子  112
「愛は死を相殺することができる」のか――『忘れられた巨人』から『わたしを離さないで』を振り返る  長柄裕美  135
『夜想曲集』における透明な言語 荘中孝之  157
記憶と忘却の狭間で――『忘れられた巨人』における集団的記憶喪失と雌竜クエリグ  中嶋彩佳  182
カズオ・イシグロと日本の巨匠――小津安二郎、成瀬巳喜男、川端康成  武富利亜  208
執事、風景、カントリーハウスの黄昏――『日の名残り』におけるホームとイングリッシュネス  金子幸男  229
英語の授業で読む『遠い山なみの光』――ネガティブ・ケイパビリティーを養う教材として  五十嵐博久  255
カズオ・イシグロの運命観  森川慎也  275
カズオ・イシグロ作品紹介  308
カズオ・イシグロ年譜  329
カズオ・イシグロをより深く知るための文献案内  334
あとがき  338

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